2009年11月24日火曜日

認識の違い


自分とは認識が「違う」と感じることで、初めて他人を認識できる。

 結構ありきたりなものですが、私なりの説明をしてみます。

 認識が同じだと勝手に判断して他人へ全幅の信頼を寄せていると、
ある時、認識が全く異なって、裏切られたような気分になったこと
もあるかと思います。

 例えば、妄信的に熱狂しているアイドルが、ありえないスキャン
ダルを起こすと、ファンクラブは崩壊したりします。
 でもそれって本当に裏切ったのでしょうか?

 そもそも自分は自分の認識を持つのだから、他人は他人なりの認識
を持ち合わせているのです。たまたまある面で認識が一緒でも、別の
面では異なるのが当然。認識が合わないことのほうが多いといっても
いいでしょう。

 人は群れで暮らす動物で、特に日本人は他人と同じだと安心する部族
のようですが、これが一番あやうい。
 他人を自分と同じと思い込んでしまい、勝手に信頼し、そして裏切
られる。

 日本と韓国がイマイチ中が良くないのも、同じ理屈かもしれません。
 見た目はなんとなく似ていて、似た単語もあったり似た風習があったり
して多くの人が韓国に親近感を持ちます。 でも突如として彼らは火病
になったり、もしくは反日教育の成果を持ち出したりします。
 その結果裏切られた気分になり、嫌韓となってしまう。

 最初から自分らと姿形もちがう欧米人とは、認識が違うのが当たり前と
思っているから、異文化として楽しめるし、意外な共通点をみつけると
うれしく思ったりしてしまうのです。たとえ相手が劣等種族の黄色猿と
思っていてもです。


 もし、自分と他人が同一の認識を持っている場合はどうなるのでしょう?

 自分と他人を同一視することは、お互いの認識を無制限に受け入れて
しまうことになります。

 そうすると自分と他人を分けている境界線があいまいになり、ついには
「自分」自身の融解がおこってしまう。

 自分の認識の絶対性はなくなり、自分が認識している世界すらあやふやな
ものとなっていってしまうでしょう。

 こんな状態あるんかいな? と思う方も多いかもしれません。 でも結構
見かけられるんですよ この状態。
 そう、宗教を熱心に信じている信者は、まさにその状態にあると言っても
良いでしょう。

 信者の中では、みんな同じ認識。神こそが絶対。神と共にあるetc。
 信者の仲間内では境界線があいまいなぬくぬくした集団でいられ、突然の
不幸があってもそれを「神の与えたもうた試練」として慰めあう。

 でも一度違う宗教と鉢合わせると、明確に認識の差が感じられ、もの凄い
嫌悪感が双方に発生してしまいます。挙句の果てには戦争です。


 自分の認識と他人の認識を明確に別なものとして、それを前提に受け入れて
、逆に同じ部分を見つけていくことができれば、長い歴史上繰り返されてきた
大規模な戦争は、終結をみることができるのかもしれません。

2009年11月23日月曜日

コアラ

反対側にもあった

コアラ

松戸駅にて

2009年11月22日日曜日

自分が絶対


 善/悪、真実/虚実・・・
 それらの判断は全て「自分」しかできない。

 自分の「認識」下に世界があるのだから、自分の判断
のみが、唯一絶対のものとなります。
 他の人の意見や世間の評判等を聞き、考えることはもち
ろん必要です。
 ですが、それらの意見に惑わされたり、誘導されたり
する必要は全く無いのです。

 かなり危険な考え方のように聞こえてしまいますが、
やんわりとその説明をしたいと思います。


 一例をあげてみましょう。

 世間で「赤」と認識されている色は絶対に「赤」なの
でしょうか。

 色は、そのものが光をうけて反射した結果の波を、眼球の
奥底で感知し、脳で判断して認識しています。

 色弱の人間には「赤」と「緑」が区別できないそうですが、
その人たちにとってはその色は「赤か緑かわからない色」
というのが正しい認識で、それは「赤」ではありません。

 また、そもそもカラーで認識できない生物にとっては、
色という概念すら無いのです。

 極論にならないように戻しますが、実は色が認識できる人
でも、色の認識には、個々人様々な違いが生じるはずです。

 光の反射がきっかけなのですから、違った角度から見れば
感受する波長は「黒」の波長かもしれません。影ですね。

 見る人の立場によって色は変化するのです。

 「認識」により個人個人で差異が出るのは必然なのです。


 このように、個人の「認識」というフィルターをとおす以上、
この世界に「絶対」の「普遍的」な「真実」は存在し得ない
のです。

 振り返ってみれば、結局は、自分が「真実」と「認識」した
ものしか、「真実」とはなりえないのです。


 では、自分の「認識」が「絶対」であるとした場合、違う
「認識」をもつ他の人と、どのように付き合えば良いのでしょう
か?

 生きていく中で、他人と共同ですすめていく作業がある場合、
自分の絶対性のために協調性を失ってしまってはいけません。
 
 自分の「認識」と他者の「認識」は違ってて当然であり、
「違い」を認識した上で協力し合える方策を考えることが必要
なのでしょう。

 自分の「認識」について他人から説明を求められれば、じっくり
と説明しますが、自分の「認識」を真として他者に押し付けたり
することは他者の「認識」に対して失礼ですし、逆に他者の「認識」
下の「真」を鵜呑みにすることは自分の「認識」を「疑う」ことに
なります。
 自分の「認識」下にこそ世界があるのですから、それを疑えば、
世界は崩壊してしまうことでしょう。

うーむ

いまいち説明しつくせない感が残りますが、要は「相手を思いやる」
という姿勢が、「自分を守る」ことにもなるのです。

世界観


 「世の中は自分のフィルタを通してでしか認識できない」

これが私の世界観です。

 このままだとよく分からないかもしれないので、具体的に
書いてみましょう。

 自分が生きている間は、この世界を認識できます。でも
自分が死んでしまえばこの世界は認識できません。

 認識できない世界は、自分にとっては「無」と同じなので、
「死後の世界」はもちろん存在しないことになります。

 また、自分が死んだ後は、自分が世界を認識できないので、
これも「無」となります。
 
 さらに、自分が生まれる前の世界も自分では認識できない
のですから、実は「無」いのかもしれません。


 じゃあお前はどこから生まれたんだよ・・・という生物学
的なつっこみが聞こえてきそうです。
 

 私たちが勉強してきた歴史や科学・・それにより私たちは
この世界が、一見、合理的で、且つ複雑なシステムとして成立
しているように「認識」しています。

 でも、そこには「認識」という自分の作業が介在しているの
で、やっぱり自分の「認識」の中の世界から抜け出ることは
できません。

 自分が無くても世界が存在するかどうかは、実は誰にも証明
できるものではないのです。


 ちょっとわかりにくいですね、例えば、こういうことです。

  実はこの世界は「自分」という「端末」を走る
 「電気信号」が見せている壮大な「夢」なのかも

 睡眠中に見る夢は現実ではないことは同意してもらえるで
しょう。
 でも、起きている間の世界も、実は自分の脳を通して
認識しているものなのですから、現実世界だと認識している
世界も、疑ってみてもいいのではないでしょうか。

 もちろん、この世界の実体の存在を否定するわけではあり
ません。そんな大それたことはできません。

 ですが、自分の認識が無い状態(生まれる前・睡眠中・死後)
では世界は認識できない。
 つまりは、自分という酷く脆い存在のごく一部の「脳」に、
この世界の全部がゆだねられているといっても過言ではないの
でしょうか。

 紀元前から現代へとつらなる歴史や科学は、合理的な世界が
好きな「自分」の、壮大な「作り話」かもしれません。

 そもそも、まだ北米ではアダムとイブから人間が発生して
いると信じている人も多いと聞きますし、さらには地球は平ら
だと信じていた時代もあったのですから。

 それらの世界観は、それらを信じている人からすれば、全う
な事実であり、絶対的なものでしょう。

 別に、彼らの世界観を自分の世界観と比較して声高に否定
したいということはありません。

 私の世界観では、

 どの事実もその人の認識下においては真実

なのですから。

思いを銘文化すること


 自分の思っていることを、ただ「思っている」だけでは、相手に
伝わらないですし、「話し」をしても断続的な思いの吐露だけで、
理解しろ、というのも無理があります。
 ではどうすれば自分の考えを理解してもらえるのでしょうか?

 文章や絵として書き記すことで、初めて体系的に自分の考えを
相手に伝えることができるのではないでしょうか。

もちろん文章や絵でも、それを読む人々はそれぞれに感想を持つ
でしょうし、自分のという人間の理解としても読む側の認識で
様々な理解のされ方をするのだろうと思います。

 でも書かないでいるよりはよっぽど良い。

そんな思いから文章を書いてみてます。

かなり取りとめのない「思い」をつづりつつ構成していくので
若干読みづらい部分も多いかと思いますが、断片的に話されるより
は読み返すこともできるのでわかりやすいかも 程度の気持ちで
読んでもらえれば幸いです。

さて何から書きましょうか?

2009年11月18日水曜日

いきなり1日坊主でした

 やっぱり、こまめにBlogをアップするのは難しいですな。

 今使ってる携帯はSoft Bankの920Tなのですが、異様なまでの”もっさり”
変換で、まともに文章を書く気にならんのです。 SMSですら全部ひらがなだし
「食べたよ」が「たべたゆ」(最後はもっさり過ぎてクリック一回分少ない)
だったり。

 この状態を打開しようとKINGJIMのポメラの購入を考えていたんですけど、
ATOKらしく断念。 私はF7とかで変換する習慣がない根っからのIME派で、
特にカタカナの入力は無変換キーを利用するので、もうATOKだとストレス
たまりまくり。しかもポメラはちょっと高いんですよね 衝動買いするには。

 つぎに買う携帯は、QWERTYキーのついたさくさく入力できるものを選びます。
なんかいい携帯ないですかねえ。

2009年11月1日日曜日

読みやすいことって重要ですよね

 子供のころは読書なんて好きじゃなかった気がする。もっぱら漫画専門だった。
 父が手塚治虫が好きで、家には100冊にも及ぶ手塚漫画があり、大人向け子供向け関係なく、意味が解る解らないも関係なく、とにかく読んでいた。「火の鳥」の未来偏、「きりひと賛歌」「MW」「奇子」「人間ども集まれ」どれもこれも小学生には向いてない作品で、まっとうに読めてたかも解らないが、なんとなく感じる不安感や心地悪さに惹かれていたようだ。
 大人になって、通勤時間という、どうにもできない時間ができた、しかも片道1時間、往復で2時間。最初のうちは音楽を聴いたり、携帯でニュースを見たりしていたのだが、それも毎日となると飽きてくる。じゃあ勉強しようかとも思うのだが、仕事で疲れていると勉強する気にもならず座ったら寝てしまう。そんなときに重宝するのが、文庫本。サスペンスもので1冊読みきりが最適。ハードカバーは重くてダメ。サスペンスものはぐいぐい進む。これが重要。多少疲れてても、サスペンスの世界にひきづりこまれるから、仕事を忘れて気分転換ができる。
 好きな作家は、岡嶋二人(解散しちゃったけど)、東野圭吾あたり。とにかく読みやすいのがいい。読書の世界は奥深く、まだまだ自分のしらない作家が、いい作品を書いているだろうとは思うのだが、なんか安心して読めるという点で、ついつい買ったり借りたりして読んでしまう。
 自分も文章を書く1人間として、読みやすい文章を書きたいと思う。すでにこの文章も硬くて読みづらいのだが、書いていく上でじょじょにやわらかく読みやすい文章になっていけたら・・・なんて思ってたり。

2009年10月31日土曜日

写真のテスト

これは

テスト

今度は?

うーむ


うーむ

テスト

どおでしょう?

まあ、今更ブログなんですがね


気分転換用に、なんらか発信するのもよいかと。