2009年11月22日日曜日

自分が絶対


 善/悪、真実/虚実・・・
 それらの判断は全て「自分」しかできない。

 自分の「認識」下に世界があるのだから、自分の判断
のみが、唯一絶対のものとなります。
 他の人の意見や世間の評判等を聞き、考えることはもち
ろん必要です。
 ですが、それらの意見に惑わされたり、誘導されたり
する必要は全く無いのです。

 かなり危険な考え方のように聞こえてしまいますが、
やんわりとその説明をしたいと思います。


 一例をあげてみましょう。

 世間で「赤」と認識されている色は絶対に「赤」なの
でしょうか。

 色は、そのものが光をうけて反射した結果の波を、眼球の
奥底で感知し、脳で判断して認識しています。

 色弱の人間には「赤」と「緑」が区別できないそうですが、
その人たちにとってはその色は「赤か緑かわからない色」
というのが正しい認識で、それは「赤」ではありません。

 また、そもそもカラーで認識できない生物にとっては、
色という概念すら無いのです。

 極論にならないように戻しますが、実は色が認識できる人
でも、色の認識には、個々人様々な違いが生じるはずです。

 光の反射がきっかけなのですから、違った角度から見れば
感受する波長は「黒」の波長かもしれません。影ですね。

 見る人の立場によって色は変化するのです。

 「認識」により個人個人で差異が出るのは必然なのです。


 このように、個人の「認識」というフィルターをとおす以上、
この世界に「絶対」の「普遍的」な「真実」は存在し得ない
のです。

 振り返ってみれば、結局は、自分が「真実」と「認識」した
ものしか、「真実」とはなりえないのです。


 では、自分の「認識」が「絶対」であるとした場合、違う
「認識」をもつ他の人と、どのように付き合えば良いのでしょう
か?

 生きていく中で、他人と共同ですすめていく作業がある場合、
自分の絶対性のために協調性を失ってしまってはいけません。
 
 自分の「認識」と他者の「認識」は違ってて当然であり、
「違い」を認識した上で協力し合える方策を考えることが必要
なのでしょう。

 自分の「認識」について他人から説明を求められれば、じっくり
と説明しますが、自分の「認識」を真として他者に押し付けたり
することは他者の「認識」に対して失礼ですし、逆に他者の「認識」
下の「真」を鵜呑みにすることは自分の「認識」を「疑う」ことに
なります。
 自分の「認識」下にこそ世界があるのですから、それを疑えば、
世界は崩壊してしまうことでしょう。

うーむ

いまいち説明しつくせない感が残りますが、要は「相手を思いやる」
という姿勢が、「自分を守る」ことにもなるのです。

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